滋賀大学建学の精神「士魂商才」と高島市中江藤樹生誕400年祭市民

滋賀大学建学の精神「士魂商才」と高島市中江藤樹生誕400年祭市民劇
木村 勝則 税理士 ITコーディネーター 事務所
滋賀大学産業共同研究センター 客員研究員
 木村 勝則

今年、世界遺産 で国宝 の姫路城 が築城400年の節目を迎えます。今年も姫路城の三の丸広場 の桜は咲き乱れ、あたかも400年の長きにわたる栄枯盛衰を姫路城と桜の花びらが表現し語っているように思える。私は咲き乱れる桜を見ていると「諸行無常」 を感じずにはいられません。昨年、滋賀県高島市滋賀大学産業共同研究センター と協定を結び、高島市ソーシャル・ネットワーキング・サービスSNS) サイト「きてねっと」 において、滋賀大学の教授も参加し、いろんな議論が行われました。この高島市には、アメリカ合衆国 の大統領のジョン・フィッツジェラルドケネディ やウィリアム・ジェファソン・クリントン にも愛読された内村鑑三 の著書「代表的日本人」にも選ばれた日本の陽明学 の祖、中江藤樹 先生がいます。先生の生誕の地、滋賀県高島市で生誕400年を祝い、昨年、滋賀県高島市で400年祭が行われました。中江藤樹先生に関する数多くの行事が行われ、多くの市民が参加しました。二年前には滋賀県彦根市彦根城築城400年祭が行われ、「ひこにゃん」 というキャラクターで、彦根市内の商店街は特需のような賑わいを経験したと聞いています。400年と言う言葉が、キワードとなり、もしかしたら時代の変遷の時間的な区切りに400年という時間軸に意味があるのかもしれないと思うのは私だけでしょうか。400年前のわが国は、まさに時代が動いていた戦国時代の世でありました。織田信長豊臣秀吉徳川家康 というわが国、日本史を代表する歴史的なリーダーによって大きくわが国が変化、変わろうとしていた時代だったかもしれません。今、日本は100年に一度といわれる、世界的な大不況に直面し、苦境を呈しています。更に産業革命以来の工業化で、自然環境は破壊され今年、メキシコでは、豚インフルエンザが流行し、多くの死亡者をだしました。これからの世界経済において「環境」という言葉がキワードになってきています。今のわが国、日本、いや全世界も大きな転換点を向えようとしていると感じています。わが国を代表する自動車産業化石燃料に頼らない環境を保全を重視したハイブリッドカー や電気自動車 の開発に本格的に取り組み始め、大きな転換点を向えようとしています。私が今年、進学しました京都大学では、ノーベル賞を受賞された益川敏英京都大学名誉教授 の講演が多数行われ、大学のあり方も大きく変わろうとしています。世界的には、今なお、世界のリーダーシップをとり続ける国、アメリカ合衆国があります。この経済不況のなか、アメリカの大統領になったバラク・フセイン・オバマ・ジュニア のリーダーシップに今、世界中が注目をしています。わが国の400年前の戦国の世に、流れ星のように、現れて消えていった戦国武将のように、時代を動かす、リーダーシップをとる人材が今、求められているのかも知れません。時を同じくして、現在日本では、与党の内閣総理大臣が流れ星のごとく変わっています。
わが国、日本のリーダーシップをとってきたのは誰かと言われれば、私は、日本で一番、最初に自宅を村人に開放し私塾、学校を創られた中江藤樹先生だと思います。愛媛県大洲の武士を辞め、郷里の滋賀県高島市安曇川町の小川村に帰り酒の販売の商売を営みました。中江藤樹先生は郷里の人々を助け、子供でも大きな川が渡れるように、リーダーシップをとりみんなの手で安曇川に橋を架けました。滋賀大学建学の精神「士魂商才」である相互扶助、社会奉仕的精神を持った近江商人、高島商人でありました。このような中江藤樹先生の生き方を学びたく、高島市中江藤樹生誕400年祭の市民劇に応募しました。
私は、昨年9月21日に、近江聖人として教科書にも載っている中江藤樹先生の生きざまを20数名の市民が演劇「藤の樹と風と−中江藤樹物語−」として演じました。中江藤樹生誕400年祭市民劇は生誕地である高島市安曇川町藤樹の里文化芸術会館で行われました。中江藤樹先生は、日本で最初の私塾を作り、その教えは今もなお地下水のごとく受け継がれ、私たちの税理士業務においても生かすべきところが多いと感じます。人は誰でも「良知」という美しい心を持っているという「致良知」や、物事をよく理解し実行して初めて知ったことになるという「知行合一」など、沢山の教えがあります。このような学校を作ることができたのは、先生の人柄、能力もさることながら、諸説はありますが、当時、豪農であった親の財産を相続したからこそ、できた偉業だという説もあります。
先生の本を数多く読みましたが、なぜ愛媛県大洲藩を脱藩してまで武士を辞め、命がけで高島市安曇川町小川村に帰ってきたかが分かりませんでした。そんな時、高島市のホームページで、中江藤樹生誕400年祭市民劇の市民出演者を募集していることを知りました。そこで、私は、早速、中江藤樹先生役で応募しました。「なぜ、命の危険まで冒して、高島に帰ってきたのか。」これが、私の思い、この理由を知りたくて、市民劇の参加がスタートしました。
昨年の3月頃から台本を読み、配役は大洲の武士3役と小川村村民5役に決まりました。4月には記者会見まで行い、テレビ、新聞社などの取材も受けました。最初は、これほどまでに真剣になるとは、自分自身想像もしていませんでした。演出家の先生や高島市の職員スタッフの思いと真剣さが、皆を本気にさせたのだと思います。今から思えば、私にとってこの市民劇の稽古そのものが、中江藤樹先生の藤樹書院であり、人としてどう生きるかを教わることができたものとなりました。この市民劇の稽古中に何日も徹夜で語りあった日々は、まさに中江藤樹先生の私塾に優るとも劣らないものとなりました。数ヶ月に及ぶ、連日の稽古で、中江藤樹先生の考えを学び、気づいたことも沢山ありました。市民劇に応募するにあたって、中江藤樹先生の本は誰にも負けないぐらい読みましたが、中江藤樹先生の本当の気持ちは分かりませんでした。しかし、演劇の持つ力、演じることによる擬似体験に勝るものはなかったと思います。何故ならば、本では得ることができない、大切なものが演出家の先生と藤樹役の俳優さんたちの真剣さと本気さによって導きだされたからです。この市民劇を一番見てほしかった母親に感想を聞くと、私の演じる姿を見て、祖父の姿を思い出したという言葉に感動しました。その言葉を聞いた瞬間、私は自分自身の親の大切さを気づき、孝は繋がっていると感じました。昨年の滋賀大学産業共同センター年報NO7 の私の寄稿文章 などの宣伝効果などで市民劇自体は一ヶ月まえにすべて有料のチケットは完売し、多くの拍手と感動のお言葉を多くの方からいただき、大成功に終わりました。
最後のカーテンコールで再び幕は開きませんでしたが、胸をはって、誇らしく真正面を向いた私たちの姿がありました。その時に私たちが流した涙がすべての苦労、葛藤を、すべて洗い流しました。
400年前に生まれた中江藤樹先生の市民劇に参加し、多くの人々と出会い、演劇の持つ力で、多くのことを学び、私自身も前向きに生きられるようになりました。この市民劇に参加した、多くの人々がリーダーシップをとり、活動されていたことに感銘し、財政難に苦しむ地方自治体と市民参加型の行政のヒントになる体験しました。
私も今年で相談員3年、滋賀大学産業共同研究センター客員研究員5年を過ごしました。さらに今年の4月からは、京都大学大学院で学び、京都大学で日々、新たな発見があります。夢は努力をし、諦めなければ必ず叶うと強く信じ、日々、感謝をしながら、前に、一歩一歩進んでいます。将来、中江藤樹先生が自宅で私塾、学校を創り、今なお、多くの人々に慕われているように、私も滋賀県高島市に住む人々が生き生きと学べる大学をこの地で創りたいと夢を大きく膨らましています。